療育手帳がなくなるかもしれない。でも素直に喜べないのはなぜ?

いつもポジティブに考えなくてはと思っている私が、めずらしく酷く落ち込んでいます。
本当は前向きに考えなければならない、でも実際には・・・。

先日、息子の療育手帳の更新へ行って来ました。
そこで久しぶりに行った発達検査。
前回よりも少し上がっていて、知能はおおむね正常の範囲になっていました。

そのため、手帳の更新については審議になってしまい。
1~2週間ほど結果を待つことになりました。
数字の上では、知的障害はないということがほぼ確定なわけです。

これは嬉しいことなのに。喜べないのはどうしてだろう。

正直、息子の最近の様子を見ていて・・・情緒面だけじゃなく知的にも遅れがあるかな?と思う場面が多々あって・・・。
そんな中でのこの結果だったので、この先どうしたら良いのだろう?と思っています。
まだ手帳の返納が決定したわけではありませんが、きっとそうだろうと思うので・・・。

手帳があってもなくても、息子は変わりないわけですが・・・。
手帳があることで適切な配慮や支援を受けられるというメリットがありました。
支援学級にしろ、学校にしろ、世間的にも・・・。

本当は、手帳があってもなくても障害を持つ人、生きづらさを抱える人たちが暮らしやすい社会になってほしいけど。
今の日本では到底難しいというのが現状で。
手帳を持たないということは、普通の子だというふうに思われてしまうのです。
このおかげで、辛い思いをしている人たちがたくさんいます。
手帳という証明がないというだけで、社会からは理解されにくいという現実。

手帳を持つことに抵抗感を持つ人も少なくないけれど。欲しくても難しい人だってたくさんいるけれど。
社会から配慮や支援を受けるためには、それがないと難しい。
結局長い間、それが当たり前だったから。
少しずつ変わっていってほしいけど、急に変わることはないから。
だから、手帳を持っていることで理解してもらえるという安心感がありました。

でもそれが、もしかしてなくなるかもしれない。
そうなったとき、じゃあこれからどうやって理解を求めていったら良いのか、どうやったら配慮や支援を受けられるのか。
もちろん、手帳がすべてでもないし、診断を受けたから、受けていないからというところをポイントにするのはおかしいと思う。
でも現実はそうなっていて。

今の私には、「手帳があろうがなかろうが、診断がつこうかつかまいが、関係ないわい!」と言う気力がない。
世の中には生きづらさを抱えながら、毎日毎日葛藤しながら暮らしている人たちがたくさんいる。
それもわかってる。
自分よりも大変な人がたくさんいる。
それもわかってる。

この世の中を少しでも変えたい。
その気持ちは今でもあるけれど、今現実を目の前にして絶望しています。
身内にはこう言われました。
「手帳がないってことは普通の子と同じでしょ?普通学級に入れたらいいよ。だってほかの子と息子は変わらないから」
手帳を持たないことは、世間は普通の子として見るということ、理解してもらうのは難しいという現実。

どうして支援学級に入れたの?と今でも人に言われることがあります。
それは息子にとって、学びの場として、生活の場として、安心してやっていけるから。
そのほうが、毎日穏やかに過ごせると思ったから。
不安定になるのがかわいそうだったし、お互いに辛いから。

息子は普通なのだろうか。普通ってなんなのだろうか。
こんなに生きづらさを抱えて生きているのに。
じゃあ障害ってなに?
毎日毎日、なるべく平穏に過ごせるように頑張っている。
その努力はいつか報われるのだろうか。

健常者である方が良いに決まってる。
でも、発達障害は治るものでもなく。
だからいかに暮らしやすくするか、いかに成長を促していけるか。
そう思って頑張ってきた。
でも手帳がなくなることによって、今まで頑張ってきたことへの理解もなくなってしまうのではないか、と。
喜ばなければならないのに、喜べない自分・・・。
この葛藤はどうしたら良いのだろうか。

 

ABOUTこの記事をかいた人

Webライター兼ブロガー。 上京して頑張る娘と発達障害の息子を育てるアラフォー。 学校が辛い子供たちのために、通信制の小中学校を作るのが夢です。学校教育や社会の「当たり前」にモノ申す。たまに趣味のことも書いています。

コメントを残す